昭和50年6月2日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか、牛馬は我が子が水に落ちて居っても助ける事が出来ぬ、人間が見ると助けてやる、人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
人間が助けるとこう言うけれども、人間が助けると言う力には限度がある、限りがある。神様が助けて下さるということになると限りがない。私共が有難いと心得て信心せよとこう仰せられますが、本当にその事が有難いと心得て、信心させて頂く様になりますと解らせて頂くのは、自分の力で助けるのではない。
神様のおかげで助ける働きと言うか、その御用に使うて頂くと言うか、そこから助かるのが本当の助けるであり助かりである。教主様の御詠の中に「なすと言えなしうる恩恵条件の、なくばなし得ず何に一つとして」と言う詠があります。
「なすと言えなし得る恩恵条件のなくばなし得ず何一つとして」例えば助けると言うてもです、神様の御恩恵がなくば助ける事が出来ない。然かもそこには一つの条件、一つの約束と言うものがある。
それが足ろはなければなし得る事は出来んのだと。何一つとしてなし得ないのだ。是は徹底した私くしは人を助けるのが有難いと心得てと仰るのは、そう言う有難い事が解らせて頂いての、その助けるということにならんのです。
ですからまずは自分の人間の力と云う物がです、もう例えて申しますとまあ百斤、二百斤まで位ならその人が持てるかも知れん。もう三百斤となったらそれを持てると云う人は、もう超人間と言う位でしょう。
人間のいわゆる力と云う物には限度があるということなんです。然かもその限度と言うてもそれは矢張り我力であります。言うならまあ自力と云うても良いかも知れません。自力とか我力とかということは、例え物を持つ力にしてもです、限度が有る事が解るでしょう限りがあるのです。
だから信心さして頂く者は、我を抜かねばいかん、我を捨てなければいけないと言うのです。我を捨てた世界がいわゆる、我れ無力だということになるのです。そしてここに、神様のおかげを頂かなければ、言うならば百斤持てるとか二百斤持てると自分で思うておった、その百斤とか二百斤しか持てないその、力すらも御恩恵を受けなければ出来ないんだと言う事です。
そして、そこには我力がなくなる、そして、そこに自分が無力である事が解って来る。そこからです、私は限りない助けると言うか、助かると言うか、そう言う働きが生まれて来る。
そこに神様の働きと私共の祈る、願いのと言うものが一つになって限りない人を助けると言う事が出来る。是は成程こういうところは牛馬で出来る筈はありません、人間以外に人間より外の動物ではそれは出来ません。それこそ我が子供が水に溺れておっても、それを助ける事も出来ません。
最近は月次祭等にお参りして来る方達が、私もお説教台の上からこう眺めてから、あそこの一連れは何処の方達じゃったかあなあと言う様な、よくよく見るとやっぱりお参りして時々お参りして来ておるとか、ほんにあの人は誰れ誰れのお導きだったとこう思うのですけれども、言うならそれ程最近は新しい御信者が多いということです。
皆さんでも今は知られない御信者が多いでしょうが。恐らく私くしは数は読んどりませんけれども、昨日は千名以上に登って居ると思うんです。朝からのお参りは。もう昨日等は、皆んなまぁ四人五人と言う風でですね。
家族中とかでお参りして来とられます。然かも昨日は佐世保、佐賀、熊本、宮崎、大分もうこの近県の方達が参って来てます。そんな遠方から皆んな参って来とります。
そう言う沢山の人達が沢山の人達が助かるということは、とてもね大坪総一郎がとても助けられる事じゃないです。それこそ私くしは知らん人なんです、まあ例えて言うならね、夕べもお月次祭が済んで遅うまで久富さんと、高橋さんとが部屋に見えましたから、三人で色々その話たんですけれども、ほんにそう言えば近頃は知らん人達ばっかりですねということです。
成程合楽で合楽示現活動に参画すると言う運動が展開されて、成程皆さんも一生懸命示現活動なさっとられるのですけれども、けれども神様が先に立ってなさっておられるとしか思われないのです。こう言う云うならば合楽と言う、まここは久留米市になっとりますけれど。
一番東の端の言うならば田園教会と言う方が良い位、あの田んぼの真ん中に最近はこうして沢山家も建って来ましたけれども、そういういうなら片田舎の教会にです、何なら人がそんなに沢山集まって来るか。
いわゆる、合楽の神様の御利益あらたかだと言う評判がですね、そういうふうに沢山の人が参って来る訳でしょうけれども。いわゆる合楽の神様がですよ、大坪総一郎じゃない、そこでその合楽の神様の働きというものが、もっともっと言うならば十全にと申しましょうかね。
もっと完璧にとでもまぁ申しますか、もっともっと助かる働きを現して行く事の為に、愈々私くし中心である所の私し自身がです、私くしの力には限りがある。言うならば百斤なら百斤しか持てない、千斤も万斤も持てる筈がない。
人間の力には限りがあるのですから、そこを悟らして貰い、そこを解らして貰うてです、いわゆる無限力に縋ると言うか、無限力に合流すると言うか、人間の心が限りない働きに私共の心が一つになる合流する。
例えば天地から見る地球、人間が住んでおる所のこの世界、地球と言う世界はもうそれこそ天地から見たら、もう粟粒の様なものなんです。地球位な例えばものは、天地の中にはもう限りないもう無数にあるのだと。
然かもそのもう限りがない偉大な天地の働きと言うものはです。一分一厘の間違いのない働きを、地球の上にだけにでも現しておられるのであります。その天地の働きと言うものがです、なら一分一厘、例えばなら間違ったと致しますとです。
この例えば地球の中にあるこの日本と言う列島はです、もう海の中に沈んでしまうということです。富士山も海の底になると言う程しに、だそうです。天地の働きが一分一厘間違ったり怠られたりする事になったら、それを正確無比の働きを以ってです。
天地がそう言う働きを地球の上に現しておって下さる、そう言う天地の働きを受けての地球である。そういう地球上に住まわせて頂いておる私達がです、またその働きを受けるのである。
言うならば一つの大きな歯車があって、又中位の歯車があってガッチリこう歯車がこう噛みあって、それに又小さい歯車があってだんだん小さい歯車があって、それでもその歯車がキチッと合ってる訳です。だからこのね天地大天地、それから例えば地球なら地球ね、の言うならばこの天地の運行というものが繰り返されておる訳であります。
天文学的な事になりますと、そういうことは私くしは全然解りませんけれども、そう言う話です。そして私しはそれをそう言う話を聞いて、成程そうであろうと思うのです。そう言う間違いのない働きの中にあってです。
例えば地球上に現れて来るところの様々な問題、難儀、暑い寒いからね、私共一個人のね暑い寒思いをするとか。例えば難儀な思いをするということがあります。言わば降る事もあれば照る事もあるのです。その降る事もある照る事もある事もひっくるめてですね、間違いのない大きな働きの中にあるということです。
最近合楽で言われておる信です、それは、降る事もあります、照る事もある、それはほんなら、天地の働きが間違うたから降るのだ、照るのだということではないということなんです。
そこの所を解らして貰う、悟らして貰うというところからです、そう言う一分一厘の間違いのない働きを現して下さっておる。その中にはです、例えば病気する事もあれば、交通事故で死ぬる事もある。降る事もあれば照る事もあるその一切をひっくるめてが、天地金乃神様の御働きであるということが解って参ります。
解って来れば来る程に、その事一事がです、一言一言がですお礼を申し上げねばならない事である事が、だんだんに解って来たのがいまの合楽です。そこのところが、例えば分からして頂いて、そう言う働きに依らなければ私共が生きて行けないんだと。
その働きに依らなければそれをです、さぁ教主様は恩恵と呼んでおられるのだと思います。なすと言へなし得る条件恩恵の、と言っとられます。そう言う一分一厘の間違いのない働きを受けておる事を悟らして貰うと言う事です。
だからなし得ると言うても、自分がなしておるのではない、神様の恩恵を受けなければ、しかもそこに条件が足らはなければ、なし得ることはないとわからして頂く心が、スッキリとそれを確信できれる。
私は信心を頂いてはじめて人を助けるのは、人を助けることが出来るのは、有難いということがわかって来る。そこんところを、言わば心得て信心せよと言う訳になるのです。天地の働きと言うものを受けてなからなければ、例えばいかに合楽示現活動、に参画さして貰うて、いくら私共が一生懸命になったところです、私共の力で何が出来ますか。
神様の御恩恵がなからなければ出来ない、そこを深く広くだんだん悟らして貰い、解らして頂いた度合いが、私くしは今の合楽の御比礼だと思います。
私しが助けんならん、私しの力でと、例えば言うておる間はです、まあせいぜい持てて百人か二百にん、言うならば、持てる力と言うものは限度がある、百斤か二百斤。
心が育つと言うか、心が進展して行くと言うか、そこにはです限りない、言うならば限りない力に合流する。
そこからもう本当に人間のそれこそ人力威命、教祖様の謐名が皆さんも御承知の様に人力威尊と申し上げる。人間の力でこれ程し事が出来るとは思われない事が出来てくる。
合楽の場合でもそうだと思います。とても人間の力で是だけの事が出来るとは思われない程しの事が、今合楽では実現しつつあるのです。そこでそう言う働きに合流すると云う事はね、天地からそして地球とそして日本列島とね。
そして、なら合楽のこの部落とそして、合楽の教会と、そして大坪総一郎とそして私くしと皆さんと言うですね、言うならば、この一つの歯車というものがです、合って廻って行く。
そこで合楽で受けておる同んなじ働きを受ける事が出来る。天地の働きをそのまま受ける事が出来る。一つの歯車が狂うたら間違ごうたら、言うならば天地の大道からそれてしまう事になる。
おかげのルートから離れる事になる。大変今日は大きな話をさせて頂いたですけれども、大は天地から小は言うなら私共個人の一人の事、是から一糸乱れずです、その天地の運行そのまま私共の上にも現していける道を、教祖の神様は教えて下さってあるのです。
そこでまあ解り安く言うと、言わば天地の心を心としてと、言わばその事です。天地の心と歯車が合う訳です。そこに一分一厘間違いのない天地の働き、その一分一厘間違いのない働きの中に降る事もある、照る事もあるということなんです。
言うなら交通事故で死なれたということであってもです、あヽ交通事故に合うて死なれたから、歯車が狂うたということでは決してないのです。深い大きな神様の御神慮の中にあっての事なのです、ということであります。
だから、お礼を申し上げなければ出来んのであり、おられんのである。ただ自分の都、不都合ということにはならんです、いけんのです。そう言う信心をふんまえていよいよ合楽示現活動に参画さして頂くならです。
それこそ私くしが最近、まぁたまがっておると言うですか、合楽に沢山の人が集まって来るということがです、とても私しに力が出来とるから集まって来よると言った様なふうには思われない。
けれども、私くしはいよいよ、天地のそう言う一分一厘間違いのない働きの中に、自分に都合の良い事だけが、天地の働きではなくて、都合の悪い事でも、矢張り一分一厘間違いの無い天地の働きであるということが、だんだん深く広く解って来れば来る程にです。ここでいよいよ人の助かる場と言うものが、大きく言わばクローズアップされて来る事になるのです。
そこでです昨日の御月次祭での高橋さんの例を取りました。日曜に香椎花園からお寿司の注文があった、二百あった。それでもラジオ、テレビでは今夜から明日に掛けて雨が降ると言っておる。
だからハッキリと注文する訳ではない、まあそこんところをよく考えてまぁ出来るだけ持って来て貰えるなら持って来て欲しいと言うのである。もし御湿りでもあったら、それはネマらかさんならん。
そこで向こうとしてもそれをはっきりと注文する事が出来ないわけです。それを請けたなら三福寿司ではです、サア是を作って雨どんが降ったら大損じゃから、まあとにかく御神意を伺おうということになって、また二度目のお参りをなさった訳です。
そしたら神様から作れるだけ作れということであったから、作れるだけ作ったということになります。成程その晩三十一日の晩、丁度ここの信心信話会があっておる時には、いわゆるお湿りになった。
風まで一緒に吹いてのいわゆる、雨風になった。この模様なら、是はもう高橋さんところで、一生懸命お寿司作り御座るじゃろうが、こりゃ明日はどうなるだろうかと言う感じである。
ところがお取次を頂いて教えた事であるから、その事はおかげになると神様は、いわゆる教八ということを頂いた、教える八と言う字を頂いた。教える八ということは、広がりに広がるとおかげになると言う意味なんです。
神様が教えて下さった事は、おかげになるということである。お取次を頂いてお願いをした事は、必ずおかげになるということである。と言うのはなら降ってもっと降るかも知れない。
明日はもう二百のお弁当はネマって返って来るかも解らない。けどもそういうことじゃないのです。そん時には私の腹が腹と言うのは、例えばそういうことになってもです、いといませんと言うか、そういうことになっても、それがおかげの元になれば良いのです。それだけ三福寿司の廻りのお取払いを頂けばそれで有難いのです。
だから私しとしてはお礼を申し上げるより外はない。まあ幸いにしてお天気になりましたから、作っただけ売れた事と思うのですけれどもね、私くし最近の合楽の信心はね、そう言う一つの動向です、そう言う方へ向かって合楽の信心は進んでおるのです。
天地の運行と共にです、言うなれば進んでおるのです。合楽も運行しておるのです。ですから、皆さんの一人一人もそう言う信心に神習わせて貰い、そう言う信心にならなければ、言うならば、動いておる合楽の車に便乗する事は出来ないと言う事になります。
そう言う信心をいよいよ解らして頂く、そう言う信心をふんまえてです、合楽示現活動、人が助かる事の、言うならば喜びを、人の助かって行く事を自分の喜びとして、行けれる様な信心を一つ身に付けて行きたいと思います。
今日のこの七十六節を聞いて頂きましたが「一人がおかげを受けた為に、千人も万人もおかげを受けるようになる」と教祖は仰っとられます。そう言う一人が助かるということは、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な意味あいにおいての助かりが出来たら、一人が助かった事になるのです。
ですからその周囲には千人も万人の者が助かる事になるのです。一人一人がそう言う働きの出来れる信心を身に付けたいですね。
どうぞ。
s50-6-1 朝の御理解 81節の最後の所が 重複して載せてある 消した
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